ツールとしてのブランド

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ハイブランドが不可思議なコレクションを開いたらその不可思議さえ肯定されてしまうことに違和感を覚えるかも知れない。凡庸な人間がする野暮な提案をハイブランドが同様にやってみせれば、ブランドネームの力を借りて認められるであろう事が納得いかないと。でも詰まりはそういう事、凡庸な人間に足りないのはブランド力、縦んば素晴らしい提案でもヒントが必要。面白い発想は日常、皆が常に考えているでしょう、それを一般化する為に独創力が求められる。前衛アートがその作品の本質の理解以上に、その活力と過程に魅力の多くを依存している様に、その「トンデモ」を認めさせる為にブランドネームを存分に駆使して気付かせるべき、欺瞞するべき。主流のカルチュアと対抗して位置するサブカルチュア、カウンターカルチュアをハイカルチュアに押し上げる、それがハイブランドには出来るのだし、試みるべき一つの役割なら、ハイブランドが提案した不可思議に面白みを感じれば素直に認めるべき。ファッションは時代と共に繰り返すけれど、以前の侭の同一解釈では、その本来の魅力だって逓減されてしまう。一般の美意識に目一杯近づける芸術と同時に、一般の美意識から目一杯遠ざかったところに追いやるのまた芸術、時代の変化を作為的に狙わなければ。酷評は偽装された賛美に違いない。而して、村上隆なんかを似非者だと往なすのは間違っている。村上隆を芸術家じゃないと言わしめるなら、それはアンディー・ウォーホルを否定するのと根底は同じなのではないか。「芸術家」というブランドがあったから海外で受け入れられた、オタクは表層的に気に食っていないだけ。